back to TOP

admin |  RSS
d686a2303f15d8c58b3dc775847037b5.jpg

現実はやはり現実なので人柄が多少変わっても何となく察しがつくが、デジタルのみだけで相手の人格を知っている場合はその変化も随分急に感じる。
だからデジタルでは手のひら返しが起きやすいのだが、デジタルの人格を見ていて″昔はこんな事を言う人じゃなかったのに″と思う事がちらほらあるが、それは私ですら一方的に文章を書くときに(つまりはブログのような場所に文章を書くときに)社会の身分がある人達の言い分を一々考えてから文章を書くのが面倒くさくなっている。
つまりは自分が辛いのに、手前の言い分なんて今更知らないと思うようになっている。
その上歳をとって少しずつ感情が馬鹿になっている。



今から書く話には私が嫌われる理由の全てがつまっている。
いつかは調べようと思っているが、調べた所で私は演技で診断が覆るようなものは基本的に信じない。
調べたら改善できるのかも分からない。
しかし、私は当事者に極めて近いと思う。
よくよく考えてみると、弟が何かの理由で医者に通っていた時に遠巻きに母が私の事を医者に話し、私自身○○だがそのお子さんも○○ではないかと言われた話が今で言う″発達障害″ではなかったかと思う。
仮に診断で違うと言われても最近思うのは、勿論一概には言えなくても管理職になる嫌われ者がサイコパスで窓際社員になる嫌われ者が発達障害ではないかと言う偏見を持ち始めている。

しかし実際には発達障害には色々なタイプがあり、全体の症状の雑多な呼び方なのは知っている。
でもそれを私が詳しく調べていないのは、順知的障害者のキップ貰うのに詳しい違いはどうでも良いと言う偏見を未だに持っているからだ。
考えても見れば誰も言わないし言ってはいけないが知的障害者って不愉快な人間達ではないのか、だったら発達障害者だって不愉快な人間であっても可笑しくはない。
知的障害者が理解され始めた時期からあまりにあからさまだから″嫌い″とすら面と向かって思われてはいないだけでほとんどの人が知的障害者は嫌いだ。

そしてコミュ障を声高に主張したがる匿名掲示板の住人は一般的に知的障害者が嫌いだと言いたがる。
あの人達も随分怪しい。
結局名前の通り発達に障害があるんだろう。
偏見をずっと話しているが、人は自分より劣っている対象に自分達と同じ格好をされると″周りから見るとお前達もこのような、有り様だ″と風刺されたようで強い不快感を示す。
恐らく健常者は発達障害者に発達障害者は知的障害者にそういう考えを抱く、だから匿名掲示板の人達は怪しい。
圧倒的に違うなら違いを受け入れるが、微妙に自分と違うのに自分と違う土俵にいる気がするから腹が立つのだ。
スポンサーサイト
20140621_devi_5.jpg

デヴィ婦人みたいなパートは頻度でたとえるならクラスに一人はいるって感じだ。
まあ労働は出来ればしたくはない。
しかしそれは充分わかってはいても直ぐに不機嫌になり大体遠目に見ても変に顔を上げてまるでドブ溜めの貴婦人のような顔をして働いている劣化デヴィ婦人みたいなパートにはたまに腹が立つ。

金がないなから働いているんだろう誰もドブ溜めの貴婦人を無理やり拐ってきて働かせている訳じゃない。

態度とは違いそのパートはセレブでも何でもない。
でもデヴィ婦人は基本的に自分が正しいと思っている。
何を言ってもしょうがない。
だったら言わなければ良い。
でも愚痴には改善する為の愚痴と、共有するための愚痴がある。
しかしお前がわざわざ共有したせいで嫌な気持ちになったと言われても私は反省しない。
私はドブ溜めの貴族だ。

所詮ネット民である私の怒りは″俺は自覚してるのに、お前は″か、″俺は出来てないのにお前は″だ。
ネット民が叩くのは大体が調子にのった存在。
まるで自分をネットのスクリーン越しに写してる。
でもずっと写りっぱなしのスクリーンは、滅多に自分の顔を反射しない。



とにかく自覚させれば良いわけではない。
自覚したら悪化する人もいる。
しかしネット民は叩きたいだけだから叩いた後のアフターケアなんて勿論しない。
ネット民は欲求に忠実だ。

でも調子にのっている人間は社会の為に叩かなくてはいけない場合もある。
だが叩いたら叩いたで、本当に自分は相手を叩けるほどの存在なのか?
自分の嫌いな部分を相手に投影して殴っているだけなのではないのかと言う疑問も沸く。
だったら叩くのをやめる事にしよう。

でも自分が辞めたら辞めたで別の人が誰かをまた叩く。
そいつらを見てお前はどうなんだと腹が立つ
振り出しに戻る。



結局世の中には適材適所、適量しかない。
でもその話をしたら誰の分量が正しいかでまた言い争いになる。
結局思うのは、この人達は色々色々言ってはいるが只々言いたいだけなんだろうと思えてくる。
でも自分だけは違うと思うか?或いは口を閉じるか?

口を閉じれば声が大きい人間がネットの世論を利用して遠巻きに世の中を変える。
自分だけは言って良いと考えるなら大嫌いなマスコミと一緒になる。
大げさな考え方か。
そこまで誰も気にしてはいないか、ネットの発言程度で世の中は変わらないか。

だったらやっぱり言いたいからいってるだけか?
黙りたいから黙るだけか?
じゃあ世の中はそれを自覚しろ。
でも自覚したら自覚したで、″言いたいこと言ってるだけだから好きにしてるだけじゃん、みんなそうでしょ?″と言った態度の人間が出てくる。
それは勿論困る。

だから世の中は何をするにしても適材適所、適量。
でもその適材適所、適量は誰が決めるのか?
この話をし始めると何度も同じ考えが言ったり来たりする。
そしてそういう様が集団としてのネット民の在り方だ。
そして今やネットに依存していない人間なんてほとんどいない。
smile.jpg

例えば強い悪と、弱い悪があるとして、強い悪には中々言い切れないが、弱い悪には簡単に言える。
強い悪は堂々としているが、弱い悪は自分の罪の発覚を恐れてキョロキョロしている。

強い悪は力を持っているから、人びとは楯突かない。
弱い悪は力を持っていないから人びとは楯突く。

結果的に弱い悪の悪行は分かりやすいものになり、何かあったらすぐに理由として思い浮かぶ。
実際は理由じゃなくても、理由にされることもあると思う。
弱い悪は目立っているだから理由にしやすい。

弱い悪に罪を被せ罪を働いている人間もいるんだろうなと思う。
51WJ7YKCy0LSX34BO.jpg

同居していると仕事を辞めたらすぐにバレる。
しかしもう限界だ不愉快な人間は社会に出ても辛い目にしかあわない。
しかし今更辞めても中々今より時給の良い仕事なんてないし、何より人間関係が出来ないという事実が変わらない以上、辞めてもまた同じ事が起きるだけだ。

私には途中で死んでしまった友人がいる。

私とつるんでいる人間は私を友人とは言いたがらないが、考えてみれば私を友人だと言ったのは彼ぐらいだったと思う、いやもしかしたら他にもいたかもしれないがハッキリと私と友人だと言いたがったのは彼ぐらいだと思う。しかしもしかしたそうでもないかもしれない。
とにかくツイッターにも似たような事例がRTされていて、やはり彼は健常者じゃなかったのかとも思うがsyamu gameのシャムさんほどには健常者だった。
私は彼を尊敬していた。
不器用な男だったが、得意分野があり、その得意分野をちゃんと生かして就職した。
しかし死んでしまった。

理由がどちらになるのかは分からないが、ツイッターのRTでも″一度も学校を休んだ事のない息子が″なんて書いてあった。
syamu gameのシャムさんは然るべき診断をすればまた変わってくるのかもしれないが、RTとして回ってきた対象は健常者ではなかったそうだ。
私の″友人″が携帯の番号を交換しようと言ってきたのを思い出す。
私が携帯電話を持ったのは随分後の話で″おいおいまだ必要ないだろう″と思いながら、その時は軽く受け流した。



仮に彼が、(と言っても私にはそう言う役目が無い為に、現実が私を選ばなかったのだが、)仮にあの時に私が″友人″に電話番号をちゃんと聞いていて、後に携帯電話を手にいれた暁には連絡を入れ、関係が継続していたら、そして仮に″友人″が私に″仕事が辛い″と言ってきたのだとしたら私はどうするべきだったのか未だに分からない。
それはsyamu gameのシャムさんに″死ね″なんて打つ人はいるかもしれないが、シャムさんももう少し生真面目な性格ならストレスを受け流す手段がなくて死んでいたかもしれない。
しかし私の″友人″は死んだ。



私は″友人″に死ぬべきではなかったとも正直言えない。
何故なら彼は私よりも人とコミュニケーションがとれず、そのコミュニケーションもsyamu gameのシャムさんと視聴者みたいな関係だった。
しかし彼は本当に優しい男でシャムさんみたいに少し人間として邪な部分が見える人間でもなかった。

そう言えば後に会った俗に言う″在日″にある男は性格がそっくりだったので、私はその男を俗に言う″在日″だったのではないかと疑っているのだが、散々始めに話している″友人″とは別にそいつも死んだと聞いた。



だから結局不愉快な人間なんて生きていてもしょうがのない。
しかし私を唯一″友人″と言ってくれた彼とは思い出があった。
死ぬくらいなら、もっと喋りたい事があった。
彼が電話番号を私に交換しようと言ってきた時もいつかはまた喋る機会があるだろうと思っていた。

私と彼の関係は田中慎弥の実験の主人公と友人の関係に近かった。
売れない小説家の主人公と、引きこもりになってしまった友人の話だ。
物語はまるで、田中慎弥が二人違う立場になって話しているように進み、大して進展もなく物語は進む。

仮に″友人″と当事縁が残っていたとして″仕事を辞めた方が良い″と私が言ったとして(実験の主人公は引きこもりになってしまった″友人″の数少ない友人として、そして仮の現状を変えるため対話をする事になる。確かそんな話だったと思う)人間性が変わらならければまた同じ事が起きる。

そしたら職を転々として、最後には私の″友人″は引きこもりになってしまっていたかもしれない。
実験の主人公は田中慎弥を色濃く反映したキャラクターで数年前に小説家とし一角の成功を納めてからは全く新作を書けてはいない。

確かそんな風な話だった。
だから主人公は引きこもりになってしまった友人に対して対話をするのだが、そこには″小説のネタになれば″と言うような邪な考えが忍んでいて、尚且つ″こいつとこれからも縁が続いたら大変だ″なんて潜在的に考えていたりもする。
良い小説だったので、この文章の為にまた買おうかとも考えるが、うろ覚えのまま話を進めても良い気がする。
とにかく死んでしまえば″何か出来なかったのか″とも思う、しかし結局社会に順応できず穀潰しになってしまえば今度はさっさと死ねとさえ思われる。
これは実験の主人公に選ばれなかった邪な私の話だ。
実験の最後は主人公が編集者に″彼は自殺しないと、自殺しない事が分かったから書くと決めたと(或いは自殺しないと分かったから観察を辞めた)″と結局何も解決しない一言を言って小説が終わる。



この文章は実験を買ってあやふやな部分を確かな文章に変えるかもしれないしあやふやな部分はあやふやなままでほおっておくかもしれない。
いや人間の記憶なんて曖昧なもので、いつか繋がった縁と話をした時はお互いに認識がバラバラな話がいくつかあった。
私には唯一自分を″友人″と言ってくれた彼なんていなかったかもしれないし、もしくは脚色して話しているだけかもしれない。
虚言と言う可能性も考えられる。

結局何も出来なかったし、いつの間にか死んでしまっていた。
何もしなかった事実をちゃんと固めてファンタジーにしてしまうのも私には違う気がする。
結局いつもの葛藤にその人が絡んだから文章にしただけだ。
実験の主人公と同じで動機が不純だ。
文章というのは走り出したら中々途中で構成を変えるのは難しい。
読みにくく、ちゃんと読んでも輪郭のはっきりしない文体になったがそれでいい。
images_201705121924413c5.png

鬱で休職できるような勤務体型で働いてないけど、最近鬱で休職する人の気持ちが分かってきた。
気持ちの問題で休むのは冷や汗ものでしかも人から白い眼で見られる。
でも鬱と言う理由があれば長い休みがもらえる。
その上で辞める勇気がないと鬱で休職と言う選択肢になるんだろう。
Template by :FRAZ