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私の趣味はオモチャを買うことなのだが、ほとんどの場合、箱からは開けない。
価値が減るというのが一番の理由だが、子供の時の思い出からオモチャというのは、箱から出す段階が一番の魅力のピークでほとんどの場合そのあとは目新しさがなくなり魅力が下がるばかりだからだ。

こういう所が私の面白くはない所だ。
箱から開けることが少ないから棚に並べて眺めることもしないし、どうにも面白味がない。




話は変わるが私が好きな言葉に「好き勝手なことをしていると、知らないうちに恵まれている」という言葉がある。

「化物語」の西尾維新が師匠のように絶賛する4人の小説家の内の1人。
「すべてがFになる」 「スカイ・クロラ」という作品で知られる工学博士の森博嗣が書いた「常識にとらわれない100の講義」という本にこの言葉は収録されている。

この言葉の意味は要約すると「好き勝手していない人は魅力がない」という意味ではないかと私は思う。
私はまったく人のことは言えないし、当事者だが、明らかに好きなことがない人間というのは見ていてもつまらない。
どの程度の能力をその人が持っているかによるが、つまらない人間はある程度の企業の面接も合格しなさそうだし、例え運よく潜り込めても出世するかどうかは微妙な所だ。
リストラ候補にはなるかもしれない。




また話が飛ぶが私が終始怯えるネットカフェ難民やホームレス。
私は偏った人間性なので調べていても信憑性がないが、その状態になる前に(ゴミ屋敷の住人のような人は置いておいて)収集するような趣味を持っていた人間は、文章や動画を見ていてもあまり見つからなかった。
もちろんホームレス問題もネットカフェ難民問題も、そんなに簡単な(法則がある)ものではない。
たまに姑のようにその様な人間を特集した(著作権を無視した)動画を見つけては、あれが悪いこれが悪いと難癖をつけて自業自得だとコメントをしたがる人間がいるが、テレビ局が意図して、「そういう人」を選んできた場合も多い特集を積極的に動画サイトで探しては、(勝手な法則を見つけるまでは私は同じことをしているとして、)積極的に罵倒しようとするのは、どういう事なのか。

「争いは同じレベルの者同士でしか発生しない」という言葉はサンデーの色物的な連載漫画が元ネタだが、
大抵の場合不自然な程にある種のネガティブな事柄に執着する人というのは、不安や恐れ、もしくは同族嫌悪といった感情を持っているのではないかと私は邪推している。




立命館大学中退の売れっ子作家「戯言シリーズ」の西尾維新の説明によると、
自分と似ている(もしく自分と関係性の深いネガティブな要素)というものは、
それを無意識に内面に持つ人間を深く引き付けるらしい。

本人達からするとその存在がいるだけで絶えず自分のネガティブな要素を「指摘」されている気分にされるという推測がなされていた。

あながち間違いではないのではないか?
少なくとも私がこのブログで積極的に書き込んでいる事柄はほとんどの場合同族嫌悪だ。
蛇足になるが、人間は利己的な生き物なので、ネガティブな感情もポジティブな感情も自分とはあまり深くは関係ないと感じるものにはあまり湧かないのかもしれない。
好きの反対は嫌いではなく無関心なんて言葉もある。




やっと本題に戻るが私がオモチャを集め始めた理由は上記に書いた2つにあるのだが、オモチャは勿論モノなので、もうあまり置く場所がないのだ。
私が集めているのは主にフィギュアではないのだが、「フィギュアは1つ買うとは増える」というのは、買うのが好きな人の中のアルアルだ。

皆が皆そうではないが、オモチャを積極的に買う人というのは買う時がピークで、あとは買った時の喜びを味わう為にそれを再現なく繰り返すという傾向がよく見られる。
ある意味ソシャゲやパチンコと変わらない理由で買い続けているのだ。

挙句は欲しいモノがあるから買っていたのに、買う行為がしたいが為に欲しいモノを見つけるという本末転倒な行動にでる人も多く、私自身もその一人だ。

自分は同じシリーズの玩具を集めたりはしないが、玩具を集める人のなかにはこの沼にはまっている人もよく見かける。
「デザインは気に入らないがシリーズだから購入した」等という話も聞くが、それでは今ある玩具に自分の「気に入るか?気に入らないか?」という大事な趣向を操られているようなものだ。




またしても邪推だが、玩具を買う様をネット上に流して、ある程度の人気を得ている人は(レオンチャンネルのような人は置いておいて)そこで得たアイデンティティーを失わない為に玩具を買い続けるという、また面倒な沼に足を踏み込むのかもしれない。

最近は断捨離なんて言葉がはやっているが、突き詰めて言えば自分自身さえあれば自分を象徴できた子供時代とは違い、成人を過ぎた人間には買い物というのは自分のアイデンティティーを自身の象徴である資本力で買う作業でもある。
だから断捨離のように何を買って何を買わないか、何を捨てて何を捨てないのかが大事になるんだろう。

自分は積極的な大人ではないのであまり大人、大人とは言いたくはないが、大人にとって何を買い、何を捨てるというのは子供以上に大切な作業なのだ。
全てではないがその多くが自分の人生にかかってくる。

今部屋を掃除をしながら玩具について考えていたからこんな散らかった文章になった。
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あまりに表情からしぐさまで全ての自己主張が強すぎるので「誰なんだお前は」とすら感じるお客様のタイプがある。
そういうお客様は何を言うにしても一々「だって俺だぜ」みたいな表情をしたり、言葉を発したりするので一々気が滅入る。
何をどうやったら自分の事を相手はあらかじめご存知である、みたいな表情ができるのか?
私の被害妄想の可能性もあるが迷わず話を続ける。

もしかしたらそういう人間は、自分だけがプレイヤーのいる特別な勇者で、それ以外はプログラミングされたドット絵ぐらいにしか見えてはいないのかもしれない。
世界は主人公である自分に合わせるべきだと、潜在意識からそう信じ込んでいるのかどうかは定かではないが、
私は現実社会でそのような人間の世界観を敢えて否定するような事はしない。

感情を動かすこと自体が無駄だと諦めたからだ。

同じ人間だと思うからこそ腹が立つのであって、それ以外のあやふやな何かだと思えば怒りの感情は下がる。

私はお客様に反発的な態度をしない為に、一部のお客様を「人間以外のあやふやな何か」として見つめる事で、
心の中で、人間として反発するよりも、もっと酷い状態に追いやってしまったのだが、心の奥底を深く見つめない人間には心は関係ない。
恐らく表面上さえそれらしくしていれば良いのだ。




仮に自分に対して感情的に振舞う一人の人物が、急に態度を変えたとしても、それは相手が自分を理解して態度を改めたのではなく、只只単純に人として諦められてしまっただけなのかもしれない。

これ以上言っても無駄なので、できるだけ表面的に付き合おうと相手から思われてしまっただけなののかもしれないという可能性がある。
もしかしたら同じ人間としてさえ見てはもらえていないのかもしれない。
歩み寄りと諦めは似ているが違う。

しかし最近は、少ないながらも色々な人間を見ているうちに、真実はどうでも表面上が穏やかならばそれで良いのではないかという気持ちが、心に浮かぶようになった。
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仮に連れの男が店員に激怒するようなことがあれば、同調かあるいは表情が強ばるか、あえて他人のような顔をするのかは知らないが、とにかく女の方は何らかのリアクションをするものだ。
しかし今まできた関係性の不明な男女は、女の方がまったくそのような素振りを見せずに皿のような目でその光景を見ていて恐ろしかった。




1人はハゼのような顔に鬼河原のような表情を称えた肉体労働者だった。
年齢が20ぐらい違うが、しかし歳をとっている30代後半から40代始めの、夜の臭いがするような女をつれていてお世辞にもキレイとは言えなかった。
この女と男は、男の方の異常なまでの気の使いようから、夫婦という風ではなかった。
しかし夜の同伴といった訳でもなさそうで敢えて言うなら「愛人」という言葉が頭によぎったが、この女はハゼのような顔をした肉体労働者が理不尽な理由で大声をあげるのを皿のような目で只只見ていた。




二人目は、どこか態度のよそよそしい、しかし友人と言った風な男の老人二人と、ギリギリ50代といった感じのこの二人の老人とは年齢の一回り若い1人の女。
女の方は、二人と何らかの家族のような繋がりはなさそう。
しかし、だからといって友人といった風でもない。
仮に老後施設の職員にしては態度が対等すぎてどこか変だし、
だがしかし何らかの契約を感じる保護者のような態度にも感じるしでよく分からない

始めの老人と、女だけが会計を同じにして、後の老人は自分は会計を分けるから良いという事だった。
この後何がおこったのかは、今回はその事について書きたい訳ではないので、敢えて書かないが、
こちらは丁寧に説明したし、連れの会計の手順を見てその事はとっくにご存知だろうというような事で激怒して、連れの女は黙ってそれを無感情に見つめていた。




三人目の男は、今までの勘から大声をあげる可能性はあったが、結局は大人しく帰っていった。

では何故敢えてここに書くのかというと、その男は鳩山由紀夫を思わせるような宙を見るような目付きをした挙動不審な男。中年太りで、感情をあまり感じさせないような肉体労働者。
強そうでもなければ分かりやすい筋肉もない。表情にも分かりやすい威嚇は存在しない。
しかしパワー型の鳩山由紀夫を思わせるようなその男は無軌道な、それでいてそこはかとない正体不明な暴力性をほんのりと臭わせていた

この男は一番若く見積もって16歳ぐらいの女を連れていた。
娘でもなければ、援助交際といった風でもないし、もしかして彼女?といった風な茶髪の女。

中年で若い女を連れている肉体労働者が内心羨ましく嫉妬心からこのような文章を私は書いているのだろうか?
確かに男の連れていた女は、素行不良そうだが分類上は美人だった。
しかし、この男と同じで随所に、違和感のように感情を感じさせない所があった。

似ている所があるのならば親子なのではないかという感情もよぎるが、顔は似てはいないし本当にあれは親子か?
親子だとしても、こんな親子は初めて見た。
互いに上の空のように会話をして、人間性を感じない風に意志疎通をとる。

オラオラ系でもなければ金持ちそうでもない。
おまけに顔はどちらかというと醜い。
客観的に見ても、女の方に男と一緒にいる利点がなさそうだが、「家出少女」とかいう分類だろうか?
それにしてもなんとなく2人の関係性は長いように私には感じとれた

客としての言動が2、3以上おかしく、私が務めている店舗では、こたえられない注文をつけてきたので、もしかしたら罵声を浴びせられるかもしれないとも思っていたのだが、
噛み合わない形で、会話を2転3転させた後、結局長時間レジにいたのにも関わらず何も買わずに帰っていった。




なんとも言えない暴力性を称えた男と、感情の奥行きが変な女というものは「冷たい熱帯魚」で大々的にブレイクした園子温監督の映画にはよく登場する。
園子温監督の「冷たい熱帯魚」は「ワイドショー でコメンテーターが顔をしかめるような一見すると意味不明な人間関係から起きた殺人事件」の一つから着想を得ている。

今回はたまたま、何とも言えない暴力性を称えた男と、その男を皿のような目で見つめている女のペアについて書いたが、接しているだけで「陰惨な事件」に接したような感情にさせるお客様は少ないがいる。
只のお客様に陰惨な殺人事件を起こした犯人像に近い印象を当て嵌めるというのはどうかとは思うが、ああいう殺人事件の犯人も事件で捕まる前は普通に小売店で買い物をしていたのだろうと思う。
もしくは未だに事件さえ明るみにでずに平然とした顔で普通の人間のような暮らしをしているのかもしれない。
今は大丈夫なだけで、この世の中の安全性は保証されてはいない。
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自分の見たい姿を、店員を鏡のように使って見つめに来る一部のお客様。

正体不明に偉そうなお客様は「店員は自分を偉いと思っているはずだ」と思い込むし、他者の存在不在で優しい態度を示すお客様は「店員は自分を優しいと思っているはずだ」と思い込む。
こういう人間というのは常に相手不在のコミュニケーションを繰り返しているのだが、接客業の店員というのは大抵の場合お客様にあわせて行動するので、難易度の低いゲームステージで無双するような快感を味わえるのだろう。

まるで気軽な気持ちで鏡の前でネクタイをあわせているように、自分自身の間違った姿を見つめ直してうっとりとしている。
鏡につかわれた私自身がどう思うかなんて考える心の持ちようはない。
鏡は只の鏡でしかないのだから。




哲学者のデカルトはこの世の中の全てを疑ってかかったていたが、ついには「この世の中の全てを疑ってかかっている自分自身心の存在」までは疑うことができなかった。
その考えは有名な言葉になっている。「我思う故に我あり」
デカルトにとって自分自身の存在を証明する心の存在というものは唯一疑いようのない事実であった。

そんな唯一疑いようのない存在であるはずの私自身の心も、他者に気持ちの良い自分の姿しか投影せずに本当の意味で他人の心を見ないような人間からしたらある意味存在しないのと同じような物だ。
唯一疑いようのない存在であるはずの私自身の心も他者の目から見たら消えてなくなってしまった。
「我思う故に我あり」というデカルトの言葉も随分虚しく感じるが、人間にはこういう面が多かれ少なかれ存在する。




もしくは、1から10まで人の心を推測しては食って掛かかってくるようなお客様だっている。
私自身の心がどのように存在しているかなんて世の中からしたら知った事ではない。
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偉そうなそぶりに、まわりが嫌々あわせているのにそれを自身の偉さの証明だと信じて疑いはしない一部の人間。
実際は腫れ物のように周りに気を使われているだけで、誰1人としてその人の事を本当に「偉い」などとは思ってはいないのに、それに気付きはしない。

そのようなうっとおしい人間にプライベートでも関係性を持とうとする人間は少ないので、大体が仕事上での付き合いが中心になる。
雇用に拘束された労働者を使い自信の肥大化した自我を満たせているうちは幸いだが、そういう人間は退職したり失脚したりと、とにかく自信の労働に関係する場所での立ち位置がなくなると、それが満たせなくなる。

そこで新たなそういう人間の肥大化した自我を背負える対象が必要になるのだろう。
家族かもしくはそういう存在がいないのであればサービス業の人間が選ばれる。




実際はこちらが「偉い」とは思ってはいなくても、そういう人間にとって説教をする事が一番てっとり早く「偉い」自分を満たせる行為になるのかもしれない。
意味不明な理由で激怒されて、こちらが唖然としていると、急にすりよった態度になる。
本人からしてみると飴と鞭のようなもので、不義理を働いた(実際にはただのイチャモンで)人間を叱り、最後には許してしまうという人間的な寛大さ。
それを行える自身の偉さの証明なのだろう。

実際にはそれで「偉さ」を他人に演出できるのは本当の人格者か、こちらが罪悪感を覚えた人間だけなのだが、そのような人間に理解ができるはずがない。
この態度は自身を偉いと信じて疑わない人間の特有のものだ。




まあここまでは偉そうな態度の人間がごく普通にやることだが、失脚退職を経験した人間の説教はますます意味不明なものになる場合が多い。そして説教した後のすりよった態度の中に、必ずと言っていいほどに媚びへつらいが見え隠れをする。
一度自身の態度に折り目がついた自称強者の、特有の表情だ。

そのような態度でしか自身の孤独を癒せないのは分かるが、多くの時間を使い自身の偉そうな態度をある意味「洗脳」してきた自分の職場の労働者とは違い、関係性の薄い労働者の態度なんてもっともっと表面的で冷たいものになる。

どう考えたって肥大化した自我を満たすには足りないだろうし、満たされないだろう。
他人の人格を自身の幸福のためだけに搾取してきた人間には、そういう最後もふさわしいのかもしれない。
実際には偉くはなかったんだからそういう目にもあう。

まあ兎に角世の中にはそのような人間がいて、実際に職場を同じくすればその態度にあわせなくてはいけないという恐怖がある。
世の中は怖いことだらけだ。

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人を説得するだとか、多くの人もしくはたった一人に自分が思う適切な印象をもってもらうというのは実際はとても難しいのだが、極めておざなりにそれをやろうとする人達はいる。
自己主張が主な目的なら人間らしい感情として分からないでもないが、何の我慢もせずに自分が好きな自己主張だけをしてしまい、その上で私の主張を理解して下さい。あなた達は変わって下さいなんて言った所で誰も聞きはしないだろう。
その上でもし「ここまで分かりやすく言ってやっているのに、それを理解しないなんて馬鹿だ」とでも言いたげな高慢な態度をとれば火に油をそそぐだけだ。

今の若者に難色をしめす老人だとか、左翼形の活動家や議員。
正しいことを言っていることも多いのに、その主張に耳を貸す人が少ないのは、世の中を変えたいという気持ちよりもリベラルにありがちな、高慢な自己主張が先に来るからだ。
仮に日本が戦争に突入するとしてもこんな貧弱な左翼では火に油をそそぐだけで何の意味もない、もちろん逆効果だ。

第二次世界対戦と大まかに言ってしまうが、あの戦争に突入する前に止めに入った勇気のある日本人達はどのような態度だったのだろうか。
そんな簡単な話ではないだろうが、仮に今の左翼と同じような態度だったのならば、戦争に突入した理由にも頷ける。
大きな流れを止めるためには、それ以上の多大な流行がひつようなのだが、今の左翼は高慢な自己主張の片手間に活動をしているのでそれを分かってはいないし、人の心もいい意味では動かさない。
その態度は最後まで変わりはしないだろう。




話は変わるが気遣いというのは他人のためにやるものだ。
いい人顔して自分の為の気遣いを、人に押し付けるお客様が来るのだが、いい人アピールの為に本来の用途とは違う名目で使われている気遣いが可愛そうだ。
実際にはほとんど感情を動かすことがなくなったが、やはりこういうお客様は老人が多い。

気遣いを、見せつける事で少しでも自分をいい人に見せて、「必要とされている」という感覚と同じものが得たいのだろうが、
実際にはこちらの事をまったく考えてはいないので只のお節介になってしまっている。
つまりは邪魔なのだ。
最後はいつもの私の年齢にみあってはいない耳っちい労働(それでも勿論働かせて貰っている事には感謝している。)の話になったが、先の話も後の話も私が感じているモヤモヤの出所は同じだ。

何が人間をこのような言動に走らせるのかというと、おざなりな言葉を使えば、寂しさかもしくは承認欲求だ。
このような安直な言葉で、結論づけたくはないが、人間をおかしな言動に走らせているのはいつもこの2つのような気がする。
この2つが私に同族嫌悪を植え付けこの文章を書かせた。
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自分の人格は100%肯定されるべきだと信じきっている一部の老人。
ポーズではなく純粋さを感じる程にそうだと信じて疑わないようなので、きっと脳が擦りきれて子供にまで退化してしまったのだろう。
自分の人格は肯定されるべきだと、純粋な程に信じきってしまっているのなんて子供と老人ぐらいだ。




この間コンビニに行くと、老人がタバコの銘柄を間違えたので変えてくれと申し入れていた。
交換する商品の方が差額分が多いので、「交換するには差額分が必要になる」旨を店員が説明すると、その老人は「おおんっ」と攻撃的に返していた。
耳が遠いのかもしれないが、どうして一瞬攻撃的になるのか、私には意味が分からない。
店員は業務上必要な会話をしただけで、しかも悪いのは商品を間違えた自分自身だ。

この間来た老人は、混んでいるレジで、カップラーメンに肉の表示がないか確認してほしいと、かなり乱暴な口調で言ってきた。
何かと言うと「結論から言え」と叫んでいたが、私ははじめからこんな老人と会話をしたくないので、結論から返している。
男が却下した商品の項目を消すためには、私のレジは男が却下した商品のバーコードが必要だったのでその作業をすると、「だから買わんといっとろうが」と茶々をいれてきたが、あなたがこの商品を買わないことはすでに知っているんだ。
事態を理解すると老人特有の開きなおった笑顔でごまかしていたが、多くの老人はいつも決まったようにこれだ。

偏屈な上に喋り相手を求めているタイプの老人は、まともに話し相手をしても急に唾をとばすような汚い仕草でどなり出したりするので、迷惑極まりない。そしてこの老人はそのタイプだ。
やたらと「肉が食べれない、肉が食べれない」としつこかったが、知ったことではない。




大体の場合人間は他人からの愛情がなければ、生きられない。
若い人間は若いというだけで、歓迎されるが容姿が劣れば劣るほど、それに付随する何かがなければ、他人から愛情を得るのは難しくなる。
その上で親という素晴らしい愛情を傾けてくれる可能性の高い存在はいずれ死ぬ。

パソコンが発達する前までは、老人の長所は「物知り」だった。
今なら無理矢理ひねりだした所で優しいあたりが該当するのだろうが、そのイメージはほとんどの場合自分のおじいちゃん、おばあちゃんから来ている。

世代別に調べたら老人世代は本当に優しい人間の多い世代として、浮かび上がるのか?
それに疑問を感じるほどに老人の「それに付随する何か」は今や風前の灯である。
そしてこれからも灯は小さくなり続ける。

人格を受け入れがたいような老人に限って妙にカワイコぶっているが、
あれはあまりにも他人から愛情を受けられなくなった誤差から来ているのかも知れない。
もはや自分を可愛いもののように扱い、自分を愛でる「自己愛」という表現でしか愛情を得る手段がないのだろう。
もしくは他人に自分を可愛いもののように扱えと、愛せと強要しているのだろうか?
そんなものは俄然無理な話だ。
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