back to TOP

admin |  RSS
shyaka2.jpg

釈迦の手のひらと言うほど安心できるものではない。
発達障害の子供が作った積み木の城だ。
無理がある地盤にルールを敷き詰めて、目についた違反者を適当に裁いて、それで壊れたら最初だけ泣いて怒っていずれそんなこともあったと歴史にするつもりだろ。

たまたま目についたから罰を与える、大きな存在だから罰を与える、もしくは与えない、与えることが出来ない。
あまりに自分ルールに無理が出てくるとはじめは泣きじゃくるが、次第に普通の事として受け入れ、それがある前提で話を進める。

あんなに文化財を大事にしていたのに、あんなに健康への危惧をしていたのに、あんなに秋葉原事件の加藤被告を攻めたのに、あまりに大事になると前提を忘れて今まで大罪として裁いた人達は無視して、今見れば最早子悪党にはあんなに目くじらを立てて怒っていたのに、いつの間にか怒りさえ忘れて、受け入れるのが大人みたいな気分になって。

世の中は発達障害の子供が作った積み木の城か、釈迦の手のひらか。
d686a2303f15d8c58b3dc775847037b5.jpg

現実はやはり現実なので人柄が多少変わっても何となく察しがつくが、デジタルのみだけで相手の人格を知っている場合はその変化も随分急に感じる。
だからデジタルでは手のひら返しが起きやすいのだが、デジタルの人格を見ていて″昔はこんな事を言う人じゃなかったのに″と思う事がちらほらあるが、それは私ですら一方的に文章を書くときに(つまりはブログのような場所に文章を書くときに)社会の身分がある人達の言い分を一々考えてから文章を書くのが面倒くさくなっている。
つまりは自分が辛いのに、手前の言い分なんて今更知らないと思うようになっている。
その上歳をとって少しずつ感情が馬鹿になっている。



今から書く話には私が嫌われる理由の全てがつまっている。
いつかは調べようと思っているが、調べた所で私は演技で診断が覆るようなものは基本的に信じない。
調べたら改善できるのかも分からない。
しかし、私は当事者に極めて近いと思う。
よくよく考えてみると、弟が何かの理由で医者に通っていた時に遠巻きに母が私の事を医者に話し、私自身○○だがそのお子さんも○○ではないかと言われた話が今で言う″発達障害″ではなかったかと思う。
仮に診断で違うと言われても最近思うのは、勿論一概には言えなくても管理職になる嫌われ者がサイコパスで窓際社員になる嫌われ者が発達障害ではないかと言う偏見を持ち始めている。

しかし実際には発達障害には色々なタイプがあり、全体の症状の雑多な呼び方なのは知っている。
でもそれを私が詳しく調べていないのは、順知的障害者のキップ貰うのに詳しい違いはどうでも良いと言う偏見を未だに持っているからだ。
考えても見れば誰も言わないし言ってはいけないが知的障害者って不愉快な人間達ではないのか、だったら発達障害者だって不愉快な人間であっても可笑しくはない。
知的障害者が理解され始めた時期からあまりにあからさまだから″嫌い″とすら面と向かって思われてはいないだけでほとんどの人が知的障害者は嫌いだ。

そしてコミュ障を声高に主張したがる匿名掲示板の住人は一般的に知的障害者が嫌いだと言いたがる。
あの人達も随分怪しい。
結局名前の通り発達に障害があるんだろう。
偏見をずっと話しているが、人は自分より劣っている対象に自分達と同じ格好をされると″周りから見るとお前達もこのような、有り様だ″と風刺されたようで強い不快感を示す。
恐らく健常者は発達障害者に発達障害者は知的障害者にそういう考えを抱く、だから匿名掲示板の人達は怪しい。
圧倒的に違うなら違いを受け入れるが、微妙に自分と違うのに自分と違う土俵にいる気がするから腹が立つのだ。
20140621_devi_5.jpg

デヴィ婦人みたいなパートは頻度でたとえるならクラスに一人はいるって感じだ。
まあ労働は出来ればしたくはない。
しかしそれは充分わかってはいても直ぐに不機嫌になり大体遠目に見ても変に顔を上げてまるでドブ溜めの貴婦人のような顔をして働いている劣化デヴィ婦人みたいなパートにはたまに腹が立つ。

金がないなから働いているんだろう誰もドブ溜めの貴婦人を無理やり拐ってきて働かせている訳じゃない。

態度とは違いそのパートはセレブでも何でもない。
でもデヴィ婦人は基本的に自分が正しいと思っている。
何を言ってもしょうがない。
だったら言わなければ良い。
でも愚痴には改善する為の愚痴と、共有するための愚痴がある。
しかしお前がわざわざ共有したせいで嫌な気持ちになったと言われても私は反省しない。
私はドブ溜めの貴族だ。

所詮ネット民である私の怒りは″俺は自覚してるのに、お前は″か、″俺は出来てないのにお前は″だ。
ネット民が叩くのは大体が調子にのった存在。
まるで自分をネットのスクリーン越しに写してる。
でもずっと写りっぱなしのスクリーンは、滅多に自分の顔を反射しない。



とにかく自覚させれば良いわけではない。
自覚したら悪化する人もいる。
しかしネット民は叩きたいだけだから叩いた後のアフターケアなんて勿論しない。
ネット民は欲求に忠実だ。

でも調子にのっている人間は社会の為に叩かなくてはいけない場合もある。
だが叩いたら叩いたで、本当に自分は相手を叩けるほどの存在なのか?
自分の嫌いな部分を相手に投影して殴っているだけなのではないのかと言う疑問も沸く。
だったら叩くのをやめる事にしよう。

でも自分が辞めたら辞めたで別の人が誰かをまた叩く。
そいつらを見てお前はどうなんだと腹が立つ
振り出しに戻る。



結局世の中には適材適所、適量しかない。
でもその話をしたら誰の分量が正しいかでまた言い争いになる。
結局思うのは、この人達は色々色々言ってはいるが只々言いたいだけなんだろうと思えてくる。
でも自分だけは違うと思うか?或いは口を閉じるか?

口を閉じれば声が大きい人間がネットの世論を利用して遠巻きに世の中を変える。
自分だけは言って良いと考えるなら大嫌いなマスコミと一緒になる。
大げさな考え方か。
そこまで誰も気にしてはいないか、ネットの発言程度で世の中は変わらないか。

だったらやっぱり言いたいからいってるだけか?
黙りたいから黙るだけか?
じゃあ世の中はそれを自覚しろ。
でも自覚したら自覚したで、″言いたいこと言ってるだけだから好きにしてるだけじゃん、みんなそうでしょ?″と言った態度の人間が出てくる。
それは勿論困る。

だから世の中は何をするにしても適材適所、適量。
でもその適材適所、適量は誰が決めるのか?
この話をし始めると何度も同じ考えが言ったり来たりする。
そしてそういう様が集団としてのネット民の在り方だ。
そして今やネットに依存していない人間なんてほとんどいない。
0f3f2e061e07152b2f6055959cd7020a.jpg

永遠の命を望むならそいつは大層クレイジーな権力者か、或いは神と自分の違いが分からなくなった愚か者だ。
たった千年で通貨のあり方、今で言う通貨の変わりになった価値のあるもの、あらゆるものの価値が変わらないようで変わった。
smile.jpg

例えば強い悪と、弱い悪があるとして、強い悪には中々言い切れないが、弱い悪には簡単に言える。
強い悪は堂々としているが、弱い悪は自分の罪の発覚を恐れてキョロキョロしている。

強い悪は力を持っているから、人びとは楯突かない。
弱い悪は力を持っていないから人びとは楯突く。

結果的に弱い悪の悪行は分かりやすいものになり、何かあったらすぐに理由として思い浮かぶ。
実際は理由じゃなくても、理由にされることもあると思う。
弱い悪は目立っているだから理由にしやすい。

弱い悪に罪を被せ罪を働いている人間もいるんだろうなと思う。
Template by :FRAZ